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アメリカ回顧録 1992年#4

アメリカ審判学校では、素晴らしい仲間に恵まれて、最高のパフォーマンスが出来たという自負がありました。世の中そんなに甘くありませんでした。ここからがまた厳しい道のりでした。当時のメジャー審判への道のりは、まず全米で3つある審判学校に行き、そこで優秀な成績で卒業し、上位10%ほどの選ばれた者が次の段階へ進みます。1992年の年には、各審判学校から15人づつが選ばれ、UDP(Umpire Development Program)というマイナーリーグ審判を統括している組織(現在は、PBUC)が用意しているEvaluation Course(査定コース)というトライアウトのような場所へ進んでプロ審判として着て行く為の教育と現在のランキング付けをする1週間ほどの研修でランキング順に配属が決まるというセレクションのようなところへ行ってさらによく観察されます。


そこでは、毎日キャンプゲームと言われる試合形式のテストが行われ、インストラクターがノッカーをして監督役も行い、普段の試合ではなかなか起きないようなプレーを作って、我々生徒に難しい状況に対する対応力を見られるのです。当然、ほとんどの生徒は、万に一度起こるかどうかのようなプレーに上手に対応できるわけがありません。でも、そこで個々の生徒の職業としての”向き不向き”を見ることが出来るのです。


僕の場合は、そこで英語での対応力を見られたと思っています。それと、英語以外の性格的な”向き不向き”を人よりもじっくりと見られたと思います。英語での対応力は”ゼロ”だったといってもいいと言いきれます。なぜかというと、監督役であったトム・レパードさん(当時UDPのスーパーバイザーで現在は、MLBスーパーバイザー)が監督役として僕のところへ出てきて、何やら外野のフェンスのほうを指さして、「門が開いているから閉めてください。」"Close that gate,please!" 程度の英語で話しかけてきましたが、僕は、真っ白にになっていて何を言われていたのか全くわからず、、ただ"Yes!"とだけしか答えられなかったのです。


そんな苦い思い出しか残っていません。それでも僕がアメリカでプロ野球審判員として採用されたのは、きっと性格的にプロ審判として向いていたのでしょう。でも採用してもらえた本当の理由は、そんな程度の英語力しかないのに厚かましくアメリカで審判になろうと決心した強い”思い”だけなのでしょうね。


とにかくいろいろな経緯があってプロ野球審判員としての人生をスタートすることが出来るようになったのです。このようなチャンスを頂けるようになったのは、先人の皆さんのお蔭であるのは、間違いありません。そのような皆さまに恩返し出来るようにこれからも前進していきたいと思います。

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