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2015年09月 アーカイブ

2015年09月08日

アメリカ回顧録 1992年#4

アメリカ審判学校では、素晴らしい仲間に恵まれて、最高のパフォーマンスが出来たという自負がありました。世の中そんなに甘くありませんでした。ここからがまた厳しい道のりでした。当時のメジャー審判への道のりは、まず全米で3つある審判学校に行き、そこで優秀な成績で卒業し、上位10%ほどの選ばれた者が次の段階へ進みます。1992年の年には、各審判学校から15人づつが選ばれ、UDP(Umpire Development Program)というマイナーリーグ審判を統括している組織(現在は、PBUC)が用意しているEvaluation Course(査定コース)というトライアウトのような場所へ進んでプロ審判として着て行く為の教育と現在のランキング付けをする1週間ほどの研修でランキング順に配属が決まるというセレクションのようなところへ行ってさらによく観察されます。


そこでは、毎日キャンプゲームと言われる試合形式のテストが行われ、インストラクターがノッカーをして監督役も行い、普段の試合ではなかなか起きないようなプレーを作って、我々生徒に難しい状況に対する対応力を見られるのです。当然、ほとんどの生徒は、万に一度起こるかどうかのようなプレーに上手に対応できるわけがありません。でも、そこで個々の生徒の職業としての”向き不向き”を見ることが出来るのです。


僕の場合は、そこで英語での対応力を見られたと思っています。それと、英語以外の性格的な”向き不向き”を人よりもじっくりと見られたと思います。英語での対応力は”ゼロ”だったといってもいいと言いきれます。なぜかというと、監督役であったトム・レパードさん(当時UDPのスーパーバイザーで現在は、MLBスーパーバイザー)が監督役として僕のところへ出てきて、何やら外野のフェンスのほうを指さして、「門が開いているから閉めてください。」"Close that gate,please!" 程度の英語で話しかけてきましたが、僕は、真っ白にになっていて何を言われていたのか全くわからず、、ただ"Yes!"とだけしか答えられなかったのです。


そんな苦い思い出しか残っていません。それでも僕がアメリカでプロ野球審判員として採用されたのは、きっと性格的にプロ審判として向いていたのでしょう。でも採用してもらえた本当の理由は、そんな程度の英語力しかないのに厚かましくアメリカで審判になろうと決心した強い”思い”だけなのでしょうね。


とにかくいろいろな経緯があってプロ野球審判員としての人生をスタートすることが出来るようになったのです。このようなチャンスを頂けるようになったのは、先人の皆さんのお蔭であるのは、間違いありません。そのような皆さまに恩返し出来るようにこれからも前進していきたいと思います。

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2015年09月16日

アメリカ回顧録1992年#5

無事に審判学校を卒業し、ステップでは英語が全然使うことが出来なかったのにも関わらず何とかルーキーリーグのアリゾナリーグへの配属が決まりました。アメリカのマイナーリーグの事について少し説明しておきます。日本の二軍にあたる場所がマイナーリーグで、アメリカには、ルーキーリーグが一番下で審判は、皆このルーキーリーグからスタートします。


純粋なルーキーリーグは、僕が1992年、最初に配属になったアリゾナリーグとフロリダ州で行われているガルフコーストリーグの2つがあります。この2つのルーキーリーグは、他のマイナーリーグと環境が大きく違っていて、一言でいうと本当に教育がメインのリーグということが出来ると思います。


まず、プロ野球なのに有料入場者(観客)がいないリーグです。球場は、メジャーのオープン戦を行う施設の一角を使って試合が行われます。メジャーが試合を行うメイン球場は使わず、スタンドも簡易的な客席が50人分ほど。お金は取らないのでタダなのですが、屋根もなく、ほとんどがデイゲームで行われるので、見に来てくれるのは、選手の家族や関係者だけです。


このルーキーリーグは、シーズンの機関が短く、開幕は6月後半になります。これは、アメリカの学校卒業時期に合わせていて、当然高校や大学などを卒業して入ってくる選手が多いので、その新人たちのためのリーグということになると思います。終了は、8月末から9月初めと、2か月半ほどの短いリーグとなっています。


このリーグの特徴は、アメリカ野球への導入リーグとでもいえばよいのでしょうか、右も左もわからない外国人審判や選手にとっては、格好の教育の場であるといっても過言ではないと思います。選手を見ても、十代の外国人選手がとても多いのが特徴です。僕にとっては、”仲間”が多くて安心したものです。英語がまだあまり上手に話せない選手がたくさんいました。ベンチ前で行っていた試合後のミーティングでも、監督などが、「英会話教室に出る者は、5時に集合!」などという声をよく聞きました。


何と言ってもリーキーリーグは、ほぼ夏の期間だけ行われています。場所もアリゾナとフロリダという灼熱の地となっています。ほぼデイゲームで行われているので、とても”暑い”リーグということが容易に想像できると思います。アリゾナリーグを"Fire League" 火のリーグ、ガルフコーストリーグを"Gulf Roast League"ガルフ焼かれるリーグと呼ばれていました。


このような過酷なリーグなので、1シーズンで卒業できるように皆頑張っています。1年目のシーズンは、プロ野球で審判をしているという実感があまりわかないリーキーリーグで凄しました。

■ルーキーリーグが行われている球場の一つ、アリゾナ州テンピ
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2015年09月20日

アメリカ回顧録 1992年#6

アメリカプロ野球でのスタートは、アリゾナでのExtended Spring Training (春のオープン戦のルーキー選手用の場)でした。このエクスデッドSTは、5月にドラフトがあるアメリカならではの仕組みで、ルーキーリーグ開幕までの間、ルーキーに配属になる選手たちが実践の経験を積む場所になっています。マイナーリーグでの階級が多いアメリカならではの教育リーグになっています。


マイナーリーグには、大きく分けて4階級に分かれています。下からルーキー、シングルA,
ダブルA、トリプルA、となります。実際には、シングルAには3段階あり、下からショートシーズン・シングルA、シングルA、アドバンス・シングルA、の3つに分けられています。日本では、基本的に二軍しかありませんから、このマイナー組織の違いは、僕にとってはとても新鮮でした。日本流に2軍、3軍という言い方にすれば、アメリカのマイナーは、ルーキーが7軍で3Aが2軍ということになります。


アメリカでは、基本的にこの7軍からメジャーを目指すことになります。審判は、原則全員7軍スタートで、3Aに上がるまでマイナーリーグ審判を専門に見るスーパーバイザーに年に3回抜き打ちで査定される結果によるランキングによって翌年の行き場が決まるのです。そのクラスでのランキングが上位の者が昇格し、中位の者は、そのクラスでもう1年、下位の中からは、場合によっては解雇ということになります。


毎年20人から40人ぐらいルーキーリーグに新人審判が入ってきます。と同時に同じ数の各クラス審判が解雇されているということになります。常に競争を強いられている凄い世界になっています。平均すると大体同期審判のうち1人程度がメジャー審判になれるような確率だということです。プロの場合、このような競争はある意味当たり前だと思います。このようなところから”ハングリー精神”が生まれているのです。


日本では、今シーズンソフトバンクが圧倒的な強さでパリーグでの優勝を決めました。ソフトバンクには、3軍があり、チームを作れるだけの育成選手がいます。そのチームで、独立リーグや韓国に行って、多くの試合をこなしているそうです。ソフトバンクは、選手層が厚いようにみえます。二軍の選手が言っているそうです。『常に3軍に落とされる危機感を持っている。』もしかしたら、ソフトバンクの強さは、このようなところから生まれているハングリー精神からくるのかも知れません。

■1992年秋のアリゾナ教育リーグでの写真です。ルーキーリーグ時代ということになります。
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